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50代独身おじさんの日常

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命を救う機能と、命を剥奪する機能の共存

私は独り者なので1人でご飯を食べる訳ですが、独りで外食をする際に、良く考えることがあります。

それは、お店側がお客様側をどの様に扱っているか、についてです。

入店時、まずは「いらっしゃいませ!何名様でしょうか?」からゴングが鳴り響き、試合開始が告げられます。

"何名様" という表現には、特別、他意は無いかと思います。

仮に、1名様でも、100名様でも、「お客様の人数」に対して「様」と言う敬称を付加しているだけですからね。

なので、この時点ではまだ両者、ジャブの撃ち合いで相手の出方を見ている状況、と言ったところかと思います。

ところが、カウンターに座り、店員さんにオーダーを告げる訳ですが、早くもお店側から攻撃を仕掛けて来る訳です。

オーダーを取ってくれた店員さんは、厨房にオーダーを伝達する刹那「カウンター3番さん、〇〇大盛り1丁!!」みたいなコールを発するのですよね。

私はこれまで、刑務所に入ったことはありませんので、この一撃に対して致命的なダメージを受ける訳ではありませんが、仮にもし、私が元受刑者だったとしたら…、そして更に、もし私の塀の中でのアイデンティティが「3番」という呼び名だったとしたら…。
ちょっとしたカウンターが顎に入り、クラっとしてしまう様な状況かと思います。

そもそも罪を犯してしまったのは本人のせいではありますけれども、塀の中で自分の犯した過ちを深く反省し、実直に長い期間、我慢に我慢を重ねて "勤め上げて" やっと塀の外に出て来れたのに…。
懲役の年数によっても感じ方は一概には言えないものの、久しぶりに味わうシャバの空気の美味しさ、シャバの飯の美味さを味わおうとしていた矢先に "塀の中での呼ばれ方" で呼ばれたとしたら…。

スタンディングノックダウンを取られるレベルのダメージを喰らう様な気がします。


前置きが長くなりましたが、今の日本の世の中、思いやりとデリカシー、いわゆる「思デリ」が足りていない様な気がしておりますけれども、飲食店における、こういった「誰も悪くない、誰にも悪気の無い状況」から繰り出される何気ない日常の一言で、傷付く人もいるのでは無いのだろうか?と言った事を、私は独り、カウンターに座り料理を待つ間、元受刑者の気持ちになって考えてみたりする訳です。

上記の様な誰も悪くなくとも、誰かが傷付いてしまう事もあると言う、現代は非常に繊細な均衡の中で成り立っている世の中だと言うのに、明らかに相手が傷付くであろう言葉をカジュアルに投げつけて来る、そんな黒い意思を纏った輩がネットの世界には蔓延ってます。

そんな輩の放つ言葉の矢が刺さり、若くして命を断つ人が一向に減らないのって、とても悲しい事だなぁってやりきれない思いになります。

東日本大震災の時に、SNSで救われた命も多々あった筈なのに、今ではSNS尊い命が剥奪される様な出来事が後を絶たない、と言う皮肉さに、人間の知能の高さと愚かさに、やりきれない思いになります。

カウンターに座り、お店の天井から吊るされたTVのニュースを観ながら、そんな事をぼんやり考えつつ食べていたもんですから、胸からお腹にかけて派手に汁を溢しているのに気が付きませんでした。

もう、シャツの前面を派手に汚した自分の愚かさに、やりきれない思いになります。

まぁそんな訳で、思デリですよね、大切なのは。と言うお話でした。
それでは皆さんごきげんよう